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「エル・クラシコ」を歴史から見よう。

 絶対に負けられない戦いがここにある。

 一昔前の日本代表戦、お決まりのフレーズである。ただ結果のために戦うわけではなく、国の威信をかけて戦う代表選手にはピッタリだ。同じように、クラブチームにも結果以上のプライドや伝統をかけて戦うことがある。その代表格が「エル・クラシコ」。

 スペイン、ラリーガの2大巨頭「レアル・マドリード」と「バルセロナ」。 Embed from Getty Images 彼らの対戦を指す「エル・クラシコ」。エル・クラシコ(El Clásico)とは、スペイン語で「伝統の一戦」を表す。英語ではThe Classic。

 エルクラシコでのリオネル・メッシクリスティアーノ・ロナウドの対戦は長らく、世界中を熱狂させてきた。今でも語られる世界一決定戦であると共に、彼らが共有する歴史と伝統がその理由であるのは間違いだろう。時が流れ、リオネル・メッシも、クリスティアーノ・ロナウドもラリーガから去り、リーグとしても、両クラブとしても過渡期に入った。レアル・マドリードはほんの少し暗黒期に入るかもといったくらいで上手く変化していった。バルセロナは一層ひどく暗黒期に突入した。ところが、クラブOBシャビ・エルナンデスが同じくOBロナウドクーマンから監督を引き継ぎ、何とか好転をもたらしてきた。それでも、まだまだあの伝説的なバルセロナには遠く、シャビ・エルナンデス監督も今シーズン限りで辞任の意向を示している。CLを勝ち進んでいることで続投のような空気も流れたが、アラウホの退場から計画は狂い、未来は辞任一直線へと戻っていった。その試合でも、シャビは怒りを中継カメラ横のクッションにぶちまけ、ピッチから姿を消した。多くのファンはいつものシャビを再認識することになっただろう。


 誤解を恐れずに言えば、一昔前と比べれ「エル・クラシコ」の魅力は減ってきているかもしれない。メッシとロナウドという、サッカーそのものを代表するような選手が両チームにいたこと自体が奇跡であり、幸運だった。今の選手たちが大したことがないと言っているわけではないが、彼らと比べると少し見劣りする(というか、誰もが見劣りする)。それでも、バルセロナからはペドリやガビは言わずもがな、ヤマルやクバルシ、フェルミン・ロペスなど次世代を担うスーパースターが出てきている。レアル・マドリードも、ヴィニシウスやロドリゴだけに飽き足らず、例の彼が来期には来るかもしれない。誰もが過ぎ去った過去を見ている中で、我々は革命前夜にいるのかもしれない。そんな、きたる時代を楽しむために「エル・クラシコ」の伝統と歴史をいまいちど確認しておこう。

スペインという国

 

 まず、注目してほしいのが、スペインという国の在り方である。スペインと一言で言っても、いくつもの民族が集まってできている国である。現に、スペインには「自治州」と呼ばれる国と県の間に相当する大きな権限を持つ広域自治体が存在している。憲法によると、スペイン国民の永続的統一性という原則の下、歴史的、文化的および経済同一性を有する隣接県は自治州を構成することができる。自治州は約1500年にスペイン王国が成立する以前から各地域の独自の伝統が、変わりつつも今日まで続いているものだと考えていいだろう。例えば、北にはバスク自治区があり、東にはバルセロナを州都とするカタルーニャ自治区がある。歴史や文化を共有するということから想像できるかもしれないが、そういった地域には独自の言語があり、独自の国旗があり、独自の憲章がある。スペインという国の特徴を少しでも理解できただろうか。

 そこで、2クラブの誕生の歴史を見ていこう。

バルセロナ

1899年、世紀末、ジョアン・ガンペールやアーサーウィッティらによって、FCバルセロナは誕生した。どのクラブの誕生秘話と同じように、始まりはただの彼らのクラブ活動であり、サークル活動だった。それから数年たって、1906年「foot-ball club Barcelona」から「futbol club Barcelona」に改名される。英語のfootballがスペイン語のfutbolに変わっている。このことから、クラブはより地域に溶け込んでいく。そもそも、なぜ英語表記だったのか疑問に思う人もいるだろう。それは、ジョアン・ガンペールがスペイン人ではなく、スイス人だったからであり、アーサーウィッティがイングランド人だったためである。そのため、バルセロナのユニフォームカラーはスイスのバーゼルFCをイメージした色が採用された。

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FC バーゼル

レアル・マドリ―

 1895年に学生や教師によって設立されたクラブが分裂。1902年、その片方がエル・マドリ―の名前に、現在のマドリ―の前身のクラブが誕生する。1920年に王室から「レアル」の名を預かり現在の「レアル・マドリ―」になる。首都であるマドリ―ドは大きな成長の最中にあり、マドリーはその中央政府の後押しを受けながら、ラリーガに参戦していくことになる。

 1928-1929年に始まった国内リーグだが、バルセロナが初代王者に輝いた。一方で1931-32シーズンからマドリ―は連覇を果たした。その後、国内リーグは7シーズンで中断することになるが、その間最も優勝したのはアスレティック・クルブだった(4回)。

 さて、中断することになった国内リーグだが、その理由がスペイン内戦である。

スペイン内戦

 1936年

、スペイン陸軍が当時のスペイン第2共和国政府に対して、クーデターを起こす。そのころ、日本は昭和11年、2.26事件が勃発した年だった。この内戦で反乱軍に立ちふさがったのが、大した脅威ではないと思われていた国民だった。武装した社会労働系の労働総同盟(UGT)、アナキスト系国民労働連合(CNT)、そして市民。彼らによって、一時的にはマドリードバルセロナバレンシア、マラガ、ビルバオ等 の反乱軍を鎮圧してしまう。

 ところが、カナリア諸島からモロッコに移動したフランコがクーデターの指揮を執るようになり、ジブラルタル海峡ヒトラームッソリーニの協力により飛び越え本土に上陸した。それに伴って、クーデターが復活する。

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 1936年フランコ軍は首都マドリードに迫る。フランコ軍がイタリアやドイツから支援を受けていたのに対して、スペイン政府はソ連からのみ支援を受けていた。マドリードはイタリアやドイツ軍による空爆を受け、陥落は時間の問題だと思われていた。それでも、「奴らを通すな(ノー・パサラン)」を合言葉に人民戦線は物資の不足するなか、フランコ軍に徹底的に抵抗した。そんな、スペイン政府のもとには世界中から義勇軍が集まった。その中には、アーネスト・ヘミングウェー、ジョージ・オーウェルなども含まれていたという。その間にも、イタリア・ドイツは反乱軍が設けた臨時政府を認め、軍隊を義勇兵として送りこんでいた。

 マドリード攻略が停滞したことによって、フランコは目標をスペイン北部に移す。1937年、バスク地方への攻撃が開始された。ドイツ軍のバスクの小さな町ゲルニカへの無差別爆撃は国際的に批判を浴び。ピカソによって、大作「ゲルニカ」が制作された。

パブロ・ピカソ作「ゲルニカ

 人民戦線も一枚岩ではなく、組織内で共産党アナーキストなど内部分裂が起きていた。1937年5月には、バルセロナでの両陣営による戦闘が起き多数の死者を出した。

 同年6月、バスク地方は制圧され、自治権を剥奪された。1938年フランコ軍は政府が移ったバルセロナへの攻撃を開始していく。必死に人民戦線が戦う中、各国の動きを見て、スターリン率いるソ連はドイツとの提携に転じ、人民戦線への支援は打ち切られた。

 バルセロナは1939年1月に占領され、マドリードも3月28日に降伏した。残ったバレンシアも30日に陥落し、そこで内戦は終結した。

 問題はその後、抵抗をしていたバスク地方カタルーニャ地方に、フランシス・フランコ率いる新政府は言語的弾圧だけでなく、文化的な活動も禁止された。特に、バスク地方に対する弾圧はETA(Euskadi Ta Askatasuna日本語:バスク祖国と自由)などのテロ組織を生み出すきっかけとなった。

2011年のETA: AP

 そういった、弾圧がフットボールの場に影響を及ぼし始めた。内戦の前の結果を見てもわかるように、バルセロナとマドリ―の闘いは今日のようなものではなかった。よくある対戦の一つだったという。アトレティック・クルブが当時はトップに君臨していたからである。それでも、内戦後は明らかにこの対戦カードは特別な意味を持つ戦いになっていった。独裁者フランコ将軍のいるマドリードを本拠地にするレアル・マドリーは、国の権力の象徴としての役割が与えられ、カタルーニャバルセロナはその逆、反逆者として扱われるようになったからである。お互いに対する敵視はフットボールというよりは、彼らが歴史によって宿命づけられた役割によって増幅されていったと言えるだろう。

 バルセロナが政府の裏回しがあったとされる審判や警察の圧力により、1-11で敗戦したこともあった。マドリ―の連覇がバルセロナとゆかりがあるイングランド人の審判の不可解な判定の連発によって防がれたこともあった。どの事件にも、確固たる証拠はない。証拠がないゆえに各クラブの溝は深まるばかりだった。

 ここまで、見てきたバルセロナやレアル・マドリ―のように、スペインサッカーの歴史はスペイン内戦の影響を受けてきた。最初期トップに君臨していたアスレティック・クラブも、トップレベルではあまりに珍しい「純血主義・属地主義」を貫いている。今日、彼らが巻くキャプテンマークにあしらわれているバスク州の国旗は、フランコ政権下では使用が禁止されていた。

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バスク自治州旗 イクリニャ

 バルセロナレアル・マドリーそして、アトレティック・クルブ。内戦とその後、大きな影響を受けつつも彼らは各々の道を進み、それぞれの文化が花開いた。改めて、エル・クラシコ、そしてスペインサッカーの歴史と伝統を確認できただろうか。

最後に

 スペイン内戦をテーマにした、事実に即した小説「サラミスの兵士たち」。この本では、フランコ軍に協力し、戦後は中心的な政党になったファランヘ党の幹部サンチェス・マサスにスポットライトを当てている。作家として、多くの人を内戦へと扇動したサンチェス・マサスは反対側から見れば、とてつもない悪党だった。彼のスペイン内戦での経験は衝撃的なものだった。何せ、彼は内戦中、人民戦線につかまり銃殺される寸前までいったからである。何とか、銃殺から森に逃れた彼は追ってきた人民戦線の兵士に見つかる。その時、サンチェス・マサスを見つけた兵士は何を思ったのか、彼を見逃しその場を立ち去った。彼らが、何を思いその行動を起こしたのか、それは各々が本を手に取ってもらいたい。この本は事実に即していると言って小説であり、どこまでが本当の話でどこからが創作は分からない。実際に、作中では小説家が主人公にインタビューを「でっち上げてしまえ」と助言する場面すらある。

 それでも思うのが、国同士の戦争と内戦の違いである。知り合いが敵にも、味方にもなる内戦では、敵を「話の通じない野蛮な悪魔」として見ることはできなかっただろう。そして、それは戦後も同じだっただろう。憎むベき相手であり、アイデンティティを同じくする仲間だった。そして、サッカーはそういった感情の表現の場所を担ってきたと思う。相手のクラブチームを憎み、そして代表チームを愛してきた。https://amzn.to/3JxIsYh

サラミスの兵士たち