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アスレティック・クルブ解説

ボスマン判決 

 1995年、サッカー界はそれまでと全く異なるものになった。12月15日欧州司法裁判所は後に「ボスマン判決」と呼ばれる判決を出した。これは、当時ベルギー2部のRFCリエージュに所属していた「ジャン・マルク・ボスマン」がヨーロッパサッカー連盟(UEFA)を相手取って起こした裁判である。事の発端はボスマンRFCリエージュとの契約が切れ、ボスマンが新たなチームと契約をしようとしたことにある。今でいうところのフリー移籍で、フランス2部USLダンケルクに移籍しようとしたボスマンだが、よく思わなかったRFCリエージュ側がボスマンの所有権を主張し移籍を阻止ようとした。当時のベルギー・フランスのサッカー協会のルールには、移籍金の支払いによる移籍規制条項が含まれおり、契約が満了しても選手の保有権はクラブにあり、クラブを通してしか選手は移籍することができなかった。つまるところ、契約が満了した選手を獲得する場合も引き続きクラブに移籍金を払う必要があった。

 結局、ボスマンに対して移籍金が払われることはなく移籍は頓挫し、選手登録もされず飼い殺しの状態になった。ボスマンはサッカー協会とRFCリエージュに所有権の破棄を求める訴えを起こし、勝訴。その後、フランスリーグ3部のチームに移籍した。

 ただ、これだけで話はとどまらず、ボスマンは元凶のヨーロッパサッカー連盟(UEFA)に対しても訴えを起こす。

その結果、簡単に言うと以下の2点が認められた。

  1. フリー移籍が可能。(契約が満了した選手の所有権をクラブが主張できない)
  2. EU加盟国出身選手に対しての外国人枠の撤廃。

 それ以前、欧州のリーグでは、契約できる外国人選手の数に制限があり、条件付きで5人までとされていた。その条件が撤廃されたことにより、ヨーロッパでの移籍が活性化した。資本のあるチームは有望な選手を各国から買い集め。逆に資本のないチームは選手を売らざる負えなくなっていた。フリー移籍が可能な以上、力関係は以前とは、逆になり選手が力を持つようになった。所属クラブが選手を引き留めようと契約更新を打診しても、今以上の高い給与を提示できるクラブには太刀打ちできず、移籍金の発生しないフリーで移籍されるならば移籍金目的の売却が残された手段になった。

 現に1995年欧州最大の大会をクライファートセードルフダーヴィッツファンデルサールなどを要し、優勝したオランダの名門アヤックスでさえ、その主力の多くを資本のあるクラブに引き抜かれ、1999年の夏には当時の主要メンバーは誰一人残っていなかった。

 それ以降、資本があるチームは各国から選手を買い集め強力な多国籍軍団を築く一方で資金がないクラブはその草刈り場となった。資金の差はチーム力の差に直結し、チーム力の差が資金力の差を広げた。今もその差は広がる一方である。

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(1995 アヤックス)

 

 

そんな中にも、時代の流れに逆らうチームもいた。

 

Piacenza Calcio 1919

 多くのクラブが外国人選手を入れ多国籍チームになる中、イタリアの「ピアチェンツァ・カルチョ」はイタリア人だけの純血主義を貫いていた。ただ、2001年に初の外国人を補強。そのまま、2003年にはセリエBに降格。2012年に破産。ルパ・ピアチェンツァSSDとして再出発することになった。

 

 ペップ・グアルディオラが率いた、バルセロナもサッカー界のグローバル化とは反対の道をたどったと言えるだろう。その圧倒的な実力がフォーカスされるが、そのメンバーも特別なものだった。グアルディオラは就任当初にそれまでチームの中心を担っていたスター選手「ロナウジーニョ」「デコ」「エトー」の放出を宣言、代わりにアカデミーの選手を多く起用した。

GKビクトール・バルデス、両CBプジョル、ピケ。左SB、ジョルディ・アルバ、中盤の三人ブスケツイニエスタ、シャビ。FWペドロ。そして、メッシ。

 バルセロナ「take the ball pass the ball」内で元バルセロナフォワード、アンリが「アヤックス以後、世界トップレベルでアカデミー出身の若手がこれほど活躍しているクラブはほとんどない」と語るように、チームはそういった面でも特別だった。

世界中の人に愛されているのには、このような理由もあるだろう。

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 ピアチェンツァ・カルチョは言わずもがな、バルサもアカデミーから有望な選手を輩出しつつも、ペップの時代ほど彼らを起用しない。どちらかというと、多国籍スターチームという方がしっくりくるのが現状だ。

 

アトレティック・クルブ

そんな中、純血主義とも言われる哲学を貫いているチームがスペインにはある。

 

athletic club

 それが「ロス・レオネス(ライオンたち)」の愛称で知られる「アトレティック・クルブ」(アトレティック・ビルバオともいう。)

伊藤文

 久保建英が所属する、レアル・ソシエダが本拠地を置くバスク州に同じく、本拠地を置くこのクラブはバスク出身の選手のみでチームを構成するという特徴的な哲学で有名である。

 このクラブは、その哲学からしばしば「バスク純血主義」と言われる。つまり、バスク地方の選手だけでチームを構成しているのである。厳密には「バスク属地主義」というのが正しく『バスク地方出身』「クラブのユースで育った選手」『バスク地方のクラブユースでのプレー経験がある選手』がクラブに入る権利を要す。

 

 驚くべきことに、限定的な選手のみで構成したクラブであるにもかかわらず、バルセロナレアルマドリードアトレティコマドリードに次ぐ4位のリーグ優勝回数を誇っている。また、バルセロナレアルマドリードと並び1部リーグからの降格を経験していない3クラブのうちの一つである。

 

 数々のインタビューで、アトレティック・クルブの強さの根底は結束力にあるという。同じ地域の選手のみで構成されるチームの結束力の高さは想像に難くない。だが、前述した「ピアチェンツァ・カルチョ」、他にも「レアル・ソシエダ」もバスク選抜の哲学を持ちつつも、1989年には放棄した。いくら結束力が高くても、トップレベルの力を維持し続けるのは容易ではないのは明らかだろう。それでも、今日までトップレベルでその哲学を貫くことができたのは、なぜだろうか。

 

特別な結束力の根底にある歴史

 1936スペイン。スペイン領モロッコのスペイン正規軍が共和国政府に対して、軍事クーデターを起こした。軍事政権樹立をもくろんでいた軍に対して、国民が反発。フランコ将軍率いる軍と共和国政府側の内戦の中、バスク政府は共和国政府側を選択する。1937年、マドリ―ドへの攻撃がうまくいっていなかった軍の標的はバスク地方を含む北部へ移る。ピカソの絵としても有名な「ゲルニカ」の無差別攻撃などバスクへの攻撃は熾烈さを増し、同年6月にバスク政府首都ビルバオが陥落。その後、1939年4月1日フランコによって、内線終戦と勝利宣言がなされた。終戦後のバスク地方は、フランコ陣営に弾圧されることになる。「バスク語の禁止」「バスク人の伝統の禁止」などが強制された。この際、チーム名もスペイン語の「アトレティコビルバオ」(Atletico Bilbao)に改名させられた。

 フランコ第二次世界大戦では、中立策を取り、戦後の47年以降は終身統領として権力を維持し、1975年に死去した。フランコの死をもって、再びバスクに自由が戻った。

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 キャプテンマークにも、使われているバスク州の旗もそれまで利用を許されていなかった。このような、歴史的な背景も高い結束力の一因なのは間違いないだろう。

 

家族に近いコミュニティ

 属地主義だからこそ、ファンと選手の距離が近く結束の強いコミュニティが形成されている。元アトレティック・クルブのホセバ・エチェベリアはThe Athleticのインタビューに対して、「チャンピオンズリーグ出場権の獲得など、いい経験もあった。逆に降格争いなど難しい時も。うまくいっている時にチームを応援することが簡単でも。チームが本当にファンのサポートが必要な時、毎週日曜日にスタジアムが満員になるのは、ビルバオだけだ。」と語っている。文字通り、地域を代表するクラブであるからこその結束力の高さがある。

 

忠誠心

 結束力の強さはまた、選手のクラブに対する忠誠心も成長させる。アトレティック・ビルバオに所属する選手の少なくない人数は、ビッグクラブに移籍するチャンスを持ちながらもチームに残る決断をすることが少なくない。

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 ホセバ・エチェベリアは、レアルマドリードへの移籍の機会を拒否しながらも、その決断に後悔はないと語っている。「お金やヨーロッパのコンペティションで戦うことは大切だが、自らの未来について考えなければいけない。2回移籍する機会があったが、どちらでも残ることを決断した。引退して10年たつがこのクラブに15年所属したことを誇りに思っている。」

 アトレティック・クルブの特別なアイデンティティの持つ魅力は時代とともに輝きを増している。そのアイデンティティと共にあることを選ぶ選手が多いことは何ら疑問ではないだろう。

 移籍することなくクラブと苦楽を共にしようとする選手の姿やファンとの関係性を見ると、クラブチームながらどこか代表チームに近い雰囲気を感じる。

 

育成システム

アトレティック・クルブのもう一つの特徴として、その育成があげられる。

 「属地主義」を掲げる以上選手の育成はクラブにとって、最重要課題である。アトレティック・ビルバオが長く成功している背景には、その選手育成のシステムがある。地域のクラブと提携を結びスカウト網を形成することで地域の才能を漏らすことなく発掘している。また、同じくバスク州に本拠地を置くクラブ、CDバスコニアを買収しサードチームとして育成に利用している。

 その、育成システムから生まれた選手を紹介する。

アカデミー/選手

ケパ・アリサバラガ

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当時のGK最高額8000万ユーロでチェルシーへ。

アイメリック・ラポルト

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当時のクラブ最高額6500万ユーロでマンチェスターシティへ。

ハビ・マルティネス

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当時オサスナの下部組織にいたマルティネスと契約。

当時のブンデスリーガ最高額4000万ユーロでバイエルンへ。

 

アカデミーに所属していたわけではないが、マンチェスターユナイテッドパリサンジェルマンで活躍した「アンデル・エレーラ」もアトレティック・クルブ出身である。

アンデル・エレーラ

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22歳の時、レアルサラゴサから加入。3年後契約解除金3600万ユーロを支払いマンチェスターユナイテッドへ。

(Transfermarket.com)

 

現在とこれから

 今季のアトレティック・クルブは昨季8位以上。同時に、チャンピオンズリーグヨーロッパリーグ等、欧州大会への出場権獲得が期待されている。

 

現在の選手

イケル・ムニアイン

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 チームのキャプテンで10番であるこの選手はトップ下や左サイドハーフを主戦場としている。16歳でトップチームデビューを果たしたムニアインは15シーズン546試合(2023/11/04)に出場してきた。クラブを代表する「ワンクラブマン」であり、クラブ歴代2位の出場数を誇る。高い足元の技術と高精度のパスを武器に結果を残してきた。ボールを持てば、何かを起こしてくれると期待を持てる選手である。ただ、今シーズンは、後述する若手「オイアン・サンセ」の台頭により出場時間を減らしている。30歳ながらも、まだまだこの選手の見せるプレーに期待したい。

ニコ・ウィリアムズ

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 今シーズン既に、1ゴール4アシストを記録しているこの選手は両ウィンでのプレーを得意としている。21歳ながらも、スペインA代表でも既にデビューを果たし、昨年のWCでもプレーした。スピードを生かしたドリブルでの突破を得意としており、兄イニャキ・ウィリアムズと共にチームの攻撃を牽引する。

イニャキ・ウィリアムズ

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 29歳のこのガーナ代表フォワードは既に、5ゴール3アシストを記録しチーム内最多得点を記録している。2012年に下部組織に入団し、トップチームでは10シーズン394試合に出場している。この選手は2016年4月から2023年1月まで7年に渡り251試合連続で試合に出場し続けていた。身体能力の高さを生かすプレースタイルながらも、けがをすることもなくまた、レッドカードやイエローカードの累積で欠場することもなかった。どの監督も彼を重用し、それだけ結果を残してきた。

オイアン・サンセ

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 23歳のミッドフィルダーはその才能を遺憾なく発揮している。ここまで、3ゴール2アシストを記録しており、試合あたり1.5本のキーパスを記録している(WhoScored.com)。188cmという大柄な体格ながらも足元の技術が高く。決定的なチャンスを演出しながらも、自ら得点できる決定力も持っている。スペイン代表でのデビューも最近しているこれから注目の選手である(背番号はなぜか2番)。

 

終わりに

 今シーズンはジローナが予想外の活躍を見せているだけに、どのクラブの活躍もインパクトに欠ける。それでも、バルセロナレアルマドリードアトレティコマドリードの3強に並ぶ5位につけている(2023/11/15)。このクラブの哲学や歴史を知ることで、ラリーガの観戦に楽しみが増えればうれしい。アトレティック・クルブは代表ウィークを挟んだ後、首位ジローナとアウェイで対戦する。